第二の黙示録 その3
それは、天使の存在だ。
各地から寄せられた報告によれば、夜空を滑空する天使の姿が相次いで目撃されている。当初は見間違いや流言の類だと考えられていた。しかし、これほどまでに同様の報告が各地から上がってくるとなれば、もはや偶然や錯覚で片付けることはできない。
ルナリア教国では、この事実はすでに把握されていたようで、大きな混乱は見られなかった。だが、それは決して安心材料にはならない。
むしろ由々しき事態である。天使が自ら地上へ降り、その目で人類を観察し始めている。それは、滅びの前兆にほかならない。原因は言うまでもない。アルヴェイン王国から広まりつつある太陽神教の教え、その影響によって生まれた際限のない浪費と欲望である。食糧そのものは足りている。それにもかかわらず、人々は必要以上に求め、必要以上に食らい、そして平然と捨てる。今、人類は再び過ちを犯そうとしていた。
正直なところ、第一の黙示録がどのようなものだったのか、それははっきりとは分かっていない。詳細が記された文献など残されておらず、何より、人類が初めて経験した天からの明確な裁きだったのだ。その全貌を知る者など、もはや誰一人として存在しない。
それでも、その凄惨さだけは語り継がれている。ルナリア教国――ひいてはルナニウム教に伝わる数少ない記録によれば、それは人の力では決して抗うことのできない災厄だったという。
曰く、抗うことのできぬ圧倒的な簒奪と破壊。
曰く、それは地上の浄化。
曰く、人類は己が犯した罪の重さを、その身をもって知ることとなる。
そして最後に、こう記されている。
――天は、人類に二度目の機会を与えた。
聞くところによれば、第一の黙示録で人類が裁かれた理由は、「強欲」だったという。
強欲――。
当時の人々が何をもってその罪へ至ったのか、今となっては知る術はない。だが、不思議と想像はできてしまう。より多くを欲し、より豊かな暮らしを求め、他者より優れていたいと願う。その果てに、必要以上の富を蓄え、財を独占し、やがて他者の命さえ顧みなくなる。その姿は、決して遠い過去の人類だけのものとは思えなかった。想像できてしまう自分が恐ろしい。つまりそれは、自分の中にもまた、その思想へ至る可能性が眠っているということなのだから。
もっとも、天使の目撃情報が相次いでいるからといって、すぐさま裁きが下るわけではない。少なくとも、ルナニウム教に伝わる記録では、そこにはいくつかの段階が存在するとされている。
最初の段階は、今回のように天使が地上へ姿を現し、人類を観察することだ。裁きを下すべきか否か。その判断のために、人々の営みを自らの目で見定めるのである。わざわざ姿を隠そうとしないのも、おそらくは警告なのだろう。
――まだ引き返せる。
――今なら間に合う。
そう告げているかのように。
そして次の段階へ進めば、天使は人類へ直接語りかけ始める。無作為に誰彼構わず言葉を交わすわけではない。記録によれば、その相手は国王や皇帝、教皇といった権力者たちが中心だったという。それは最後通告だ。人類に残された、最後の選択の機会なのである。厳密にはもう数段階あるようだが、記録が無いのでは調べようもない。
警告だけで民衆が最善の選択を取れるのであれば、誰も苦労はしない。……そう言いたくなる。ともあれ、天使が各地で幾度も目撃されている以上、人類はすでに最初の段階へ足を踏み入れたと考えるべきだ。この状況を打開するには、まず帝国が抱える問題を一つずつ解決していくべきだろう。だが、それができない。
帝国内で広がり続ける太陽神教の思想を抑え込むには、人々の不満や閉塞感そのものを取り除く必要がある。そのためには、北方で続く魔国との戦争を一刻も早く終結させ、兵士を故郷へ帰し、疲弊した国を立て直さなければならない。それは現実的ではない。魔国スオイエリアの軍勢はあまりにも強大だ。ルナリア教国の支援を受けてなお、辛うじて戦線を維持しているのが現状である。
アルヴェイン王国が力を貸してくれることも期待できない。むしろ、あちらにとっては都合がいいのだ。太陽神教の教えが帝国内へ浸透し、人々の不満が皇室やルナニウムの教えに向かうほど、ヴァルディア帝国は内側から弱っていく。戦場では魔国に削られ、国内では思想に侵される。アルヴェイン王国は、その時が来るのを静かに待っているだけでいい。最も高い利益が得られるその時を。少なくとも、彼らはそう考えている。
この詰みとも言える状況を打開するため、今日もまた知恵を絞らねばならない。だからこそ、帝国の中枢を担う三人の臣下を執務室へ招集したのである。
「陛下、よろしいでしょうか。」
最初に口を開いたのは、帝国の政務を一手に担う宰相、エイノ・カレヴィだった。その穏やかな口調とは裏腹に、瞳には隠しきれない憂慮の色が浮かんでいる。アートスは小さく頷き、先を促した。
「申してみよ。」
「ありがとうございます。まずは帝国内の現状についてご報告いたします。残念ながら、食料価格の高騰は依然として収まる気配を見せておりません。各地で穀物の買い占めが相次ぎ、一部の商人や貴族が相場を吊り上げて利益を得る動きも確認されています。」
エイノは手元の資料を一枚めくる。
「さらに問題なのは、太陽神教会の思想が予想以上の速度で浸透していることです。贅沢は神の祝福であり、豊かさは信仰の証――そのような考えが都市部を中心に広まりつつあります。富裕層だけでなく、一般市民の間にも少しずつ影響が及び始めています。」
執務室に重苦しい沈黙が落ちた。それは、誰もが理解している現実だった。食糧不足ではない。思想こそが、帝国を蝕んでいるのである。皇帝は静かに目を閉じ、短く息を吐いた。
「……やはり、そうか。」
報告書に記されていた内容は誇張でも噂でもなかった。帝国は、内側から蝕まれ始めている。
「オツォ。」
「はっ。」
呼ばれた近衛大将軍、オツォ・ヴィルタネンが一歩前へ進み出る。歴戦の将らしく背筋を伸ばしたまま、低く重みのある声で口を開いた。
「北方戦線の状況をご報告いたします。」
執務室の壁に掛けられた大陸地図へ視線を向けながら、彼は続けた。
「結論から申し上げます。現状維持が限界です。」
その一言だけで、部屋の空気はさらに重くなる。
「魔国スオイエリアの攻勢は衰えるどころか、日に日に激しさを増しております。幸い、ルナリア教国からの支援によって戦線そのものは維持できておりますが、それも辛うじての話です。」
オツォは拳を軽く握り締めた。
「敵は損耗を恐れません。兵を失えば補充し、将を討てば新たな将が現れる。まるで底が見えない。」
「こちらの被害は。」
「戦死者、負傷者ともに増加傾向です。兵士たちの士気は依然高く保たれております。しかし、補給の遅れと長期化した戦争への疲弊は隠せません。」
アートスは腕を組み、黙って耳を傾ける。
「さらに申し上げれば、この状況で戦力を他へ割く余裕は皆無です。国内の治安維持を強化したくとも、その兵すら前線へ送らざるを得ないのが現状です。」
宰相エイノが小さく目を伏せた。
「つまり、国内問題へ十分な人員を回せない、と。」
「その通りです。」
オツォは迷いなく頷く。
「魔国との戦争が終わらぬ限り、帝国は国力を削られ続けます。そして、その隙を突くように太陽神教の思想が国内へ広がっている。敵は二つあるように見えますが、実際には一つの問題として繋がっているようにも見えます。王国と魔国は裏で協力関係にあるのではないでしょうか。」
重苦しい沈黙が再び執務室を包んだ。誰も反論はしない。その場にいる全員が、同じ現実を見ていたからだ。皇帝アートスはゆっくりと視線を上げ、最後の一人へ目を向けた。
「……イルマリ。」
その一言で、宮廷魔導長イルマリ・ラウタが静かに一歩前へ進み出た。
